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研究院近期成果|楊彦君、儲欣予「『南方軍防疫給水部留守名簿』の歴史的解釈」

发布时间:2025/1/10 16:38:00

『南方軍防疫給水部留守名簿』の歴史的解釈

楊彦君(YANG Yanjun)、儲欣予(CHU Xinyu


要旨:『南方軍防疫給水部留守名簿』による全隊員の実名公表は、九四二〇部隊の編制、組織規模、人員構成および階級?職級などの基礎的史実を明らかにし、それに基づき新たな学術研究を進展させることを可能にした。また、その情報を手掛かりに隊員が執筆した生物医学研究報告を調べることもでき、第二次世界大戦中にシンガポール、フィリピン、マレーシアなどに侵攻した日本生物戦部隊を考察する上で重要な価値を持っている。九四二〇部隊は、部隊の編成、「防疫」業務から生物戦研究に至るまで七三一部隊を核心としており、また、人員配置と研究活動の面で陸軍軍医学校や七三一部隊と絡み合った関係にあり、日本生物戦体制の特徴を提示することができる。


キーワード: 九四二〇部隊 Unit9420、留守名簿 Name list、生物戦 Biological Warfare、七三一部隊 Unit731



日本国立公文書館筑波分館には『留守名簿(南方)南方軍防疫給水部?岡第九四二〇部隊留守名簿』という簿冊資料(以下、『南方軍防疫給水部留守名簿』と略称する)が保存されており、それにより九四二〇部隊の設立経緯、組織構造、人員構成および部隊規模などの基本的状況を明らかにすることができる。南方軍防疫給水部?岡第九四二〇部隊(以下、九四二〇部隊と略称する)の主要任務と生物戦準備に関する状況について、これまでの学術論著において言及されてはいるが、参考になった史料は衛生兵や少数の関係者が口述したものに限られている。『南方軍防疫給水部留守名簿』は、国内外の学界にとって全く新しい一次史料であり、重要文書の欠如により九四二〇部隊の全貌を把握できないという学術的苦境を打破できると言えよう。また、戦時中における同部隊の動向、特に生物兵器研究活動を詳しく解明する上でかけがえのない学術的価値を持つ。九四二〇部隊と七三一部隊を含めた中国におけるほかの防疫給水部との関係を明らかにすることによって、日本生物戦体制の構成上の特徴を押えることができ、さらに日本の生物兵器犯罪、その影響および戦争責任を提示する上で非常に現実的な意義がある。

1.『南方軍防疫給水部留守名簿』の主要内容

第二次世界大戦期、日本は東南アジアに多数の外征部隊を派遣した。その部隊の集中管理を強化し、恩給や見舞金の支給基準を定め、また日本本土にいた家族との連絡を取りやすくするために、陸軍省は「留守業務」に関わる諸規則が列挙されている「留守業務規程」(1944年11月30日陸亜普第1435号)を発布した。「留守名簿」とは、つまり「留守業務規程」に基づき作成された人事ファイルであり、1945年1月1日にはじめて作成され、同年1月10日、9月1日、そして戦後に何度も補足?修正された。

筆者が見た『南方軍防疫給水部留守名簿』には3つのバージョンがある。一つめは1945年1月1日に豊橋陸軍病院が作成したものである。本文は全部で127ページであり、表紙には赤インク印の「秘 軍事機密」がある。二つめは1945年1月10日に南方軍防疫給水部が作成したものである。本文は全部で154ページであり、表紙には赤インク印の「秘」がある。三つめは1945年9月1日に南方軍防疫給水部が作成したものである。本文は全部で103ページであり、付箋には「永久保存(本冊は連合軍の所属なるにより絶対に破棄焼却を禁ずる」(図1)と書いてある。

九四二〇部隊の隊員の個人情報については、3つのバージョンにそれぞれ記載された詳細を見ると、主に次のような特徴を持つことが分かる。第一に、一部のバージョンにしか記載されていない人物がいる。第二に、異なるバージョンに記載されている情報は完全に一致していない。例えば隊長の羽山良雄に関する情報は、3つのバージョンすべてに記載されているが、バージョン1とバージョン2では「現医大佐」、バージョン3では「現医少将」と記載されている。これは、羽山良雄が1945年6月10日に少将に昇進し、バージョン1とバージョン2はいずれもその昇進前に作成されたからだと思われる。第三に、ごくわずかな例に過ぎないが、誤記、記入漏れ、および間違えた場合もある。例えば松浦春雄の生年月日について、バージョン3では「昭和35年3月20日」と記載されているが、バージョン2では「明治35年3月20日」となっている。年齢から判断すると、後者は明らかに誤記であることが分かる。三つのバージョンを比較すると、194591日に作成された『南方軍防疫給水部留守名簿』における個人情報はもっとも新しく、特に階級?職級は戦時中の最終階級?職級に相当し、ほかの二つのバージョンより正しいである(羽山良雄の例)。このため、本稿はバージョン3を中心に論述し、バージョン1とバージョン2は補足と校正のために参考とする。

上記3つのバージョンの『南方軍防疫給水部留守名簿』は合計384ページあり、中味は全部手書きであり、468人の個人情報を仮名の順序で黒塗らず記載している。具体的な内容は九四二〇全隊員の氏名、生年月日、本籍地、部隊編入時期、職級、これまでの所属部隊と編入時期、および留守担当者、即ち隊員の日本在住の直系親族の情報などである。『南方軍防疫給水部留守名簿』はかつて日本陸軍省(戦後第一復員省に改組された)で保存されたが、のちに長期にわたって旧軍人?軍属への恩給と年金の支給基準の参考として厚生労働省社会援護局で保管されており、2015年以降厚生労働省から日本国立公文書館に移管された。

2.南方軍防疫給水部の編成

1942年4月22日、中国派遣軍総司令官である畑俊六は、陸軍大臣の東条英機に「南方軍防疫給水部編成地並編成予定完結日の件」を提出した(図2)。部隊名を「南方軍防疫給水部」、文字符を「栄」、通称番号を「九四二〇」とし、編成業務は「中支那防疫給水部長」が担当するなどのことが明記された。七三一部隊総務部長の大田澄軍医大佐は、1941年7月2日から1943年2月17日まで中支那防疫給水部長を務めた。つまり、大田澄が南方軍防疫給水部の編成業務を担当したのである。

1942年5月12日、畑俊六はまた東条英機に「南方軍防疫給水部編成完結ニ伴ウ書類提出ノ件報告」を提出し、なかには南方軍防疫給水部の編成完了日、将校職員表、通称番号などの情報が詳細に列挙されている。この報告によると、九四二〇部隊は1942年5月5日に南京で編成され、当初は「栄第九四二〇部隊」とされたが、南京からシンガポールに移転した後に「岡第九四二〇部隊」と改称された。編成当時の定員数は将校29人、準士官?下士官49人、兵士130人、合計208人であったが、5月5日現在の隊員数は将校22人、準士官?下士官9人、兵士115人,合計146人、即ち約30%欠員であった。

「南方軍防疫給水部略歴」によると、九四二〇部隊は南京で編成完了した後、6月1日に上海からフィリピンのマニラに寄港され、6月20日にシンガポールに到着し、その後シンガポールで防疫給水業務に従事した。同部隊は1943年4月15日にシンガポールを出発し、4月20日にタイ北部のカンチャナブリに到着した。10月15までカンチャナブリに駐在し、10月下旬にまたシンガポールに戻り、引き続き防疫給水業務を行った。1945年9月2日、日本が降伏文書に調印するに伴い第二次世界大戦は正式に終結した。同年11月に、九四二〇部隊はレンパン島に移駐し、翌年5月1日にラバン島を出発して日本へ向かい、5月19日に名古屋に上陸し、そして5月20日に復員を終えた。

また、留守業務局が1947年3月10日に作成した「南方軍防疫給水部マニラ支部留守名簿」もあり、その内容は主に業務処理責任者の情報である。例えば帆刈喜四男軍医少佐が「隊部」の業務を、三浦平太郎雇員が「残務整理部」と「留守業務部」の業務を担当するとされた。そのほか田代要人、小崛秀次郎など合計7人の個人情報も記載されている。この文書により、九四二〇部隊がフィリピンのマニラに設置した支部の状況と人員構成も分かる。

3.南方軍防疫給水部の人員構成

『南方軍防疫給水部留守名簿』(バージョン3)には将官1人、佐官13人(うち大佐1人、中佐4人、少佐8人)、尉官56人(うち大尉21人、中尉21人、少尉11人、准尉3人)、技師8人、および技手69人の氏名が記載されている。将官、佐官、技師が九四二〇部隊の中核管理職を構成し、尉官と技手も合わせて防疫給水業務の中堅となっていたのである。前述の三つのバージョンに記載された九四二〇部隊の隊員情報はそれぞれ多少異なるが、比較して整理すると主要メンバーの入隊日や旧所属などが分かる。



1942年5月12日、畑俊六はまた東条英機に「南方軍防疫給水部編成完結ニ伴ウ書類提出ノ件報告」を提出し、なかには南方軍防疫給水部の編成完了日、将校職員表、通称番号などの情報が詳細に列挙されている。この報告によると、九四二〇部隊は1942年5月5日に南京で編成され、当初は「栄第九四二〇部隊」とされたが、南京からシンガポールに移転した後に「岡第九四二〇部隊」と改称された。編成当時の定員数は将校29人、準士官?下士官49人、兵士130人、合計208人であったが、5月5日現在の隊員数は将校22人、準士官?下士官9人、兵士115人,合計146人、即ち約30%欠員であった。

「南方軍防疫給水部略歴」によると、九四二〇部隊は南京で編成完了した後、6月1日に上海からフィリピンのマニラに寄港され、6月20日にシンガポールに到着し、その後シンガポールで防疫給水業務に従事した。同部隊は1943年4月15日にシンガポールを出発し、4月20日にタイ北部のカンチャナブリに到着した。10月15までカンチャナブリに駐在し、10月下旬にまたシンガポールに戻り、引き続き防疫給水業務を行った。1945年9月2日、日本が降伏文書に調印するに伴い第二次世界大戦は正式に終結した。同年11月に、九四二〇部隊はレンパン島に移駐し、翌年5月1日にラバン島を出発して日本へ向かい、5月19日に名古屋に上陸し、そして5月20日に復員を終えた。

また、留守業務局が1947年3月10日に作成した「南方軍防疫給水部マニラ支部留守名簿」もあり、その内容は主に業務処理責任者の情報である。例えば帆刈喜四男軍医少佐が「隊部」の業務を、三浦平太郎雇員が「残務整理部」と「留守業務部」の業務を担当するとされた。そのほか田代要人、小崛秀次郎など合計7人の個人情報も記載されている。この文書により、九四二〇部隊がフィリピンのマニラに設置した支部の状況と人員構成も分かる。

3.南方軍防疫給水部の人員構成

『南方軍防疫給水部留守名簿』(バージョン3)には将官1人、佐官13人(うち大佐1人、中佐4人、少佐8人)、尉官56人(うち大尉21人、中尉21人、少尉11人、准尉3人)、技師8人、および技手69人の氏名が記載されている。将官、佐官、技師が九四二〇部隊の中核管理職を構成し、尉官と技手も合わせて防疫給水業務の中堅となっていたのである。前述の三つのバージョンに記載された九四二〇部隊の隊員情報はそれぞれ多少異なるが、比較して整理すると主要メンバーの入隊日や旧所属などが分かる。

表2が示すとおり、内藤良一、早川清、帆刈喜四男、竹川信也、河野寮園らが九四二〇部隊による「防疫給水」および生物兵器研究の中核的な力担い手である。これらの研究報告で取り上げられた研究対象地域はインド、シンガポール、マレーシア、ベトナム、ビルマ、フィリピンなど東南アジア全域、さらにはオーストラリアにまで及び、研究内容は衛生気象、恙虫病ウイルス、マラリアの感染と予防、蚊の分布と生息環境などを含んだ。なかでも恙虫病ウイルスに関するものは16本に達し、病気の媒介物である「蚊」に関するものは6本あり、ほかに軍事医学を専攻していた井村東三司と小澤定雄による「熱帯地域駐留陸軍部隊兵士の食事に関する検討(当部隊給食ヲ以テスル試験))」などもある。特に注目すべきなのは、『南方軍防疫給水部業報(丙)』に掲載された研究報告の執筆者には、九四二〇部隊のメンバーだけでなく、陸軍軍医学校防疫研究室と軍陣防疫学教室、七三一部隊、および八六〇四部隊のメンバーもいたことである。



九四二〇部隊の隊長であった羽山良雄は、『陸軍軍医学校防疫研究報告(第2部)』に「チフス等四種混合予防接種液ノ有効期限ニ就テ」、「戦時防疫ニ就テ」、「平戦両時ニ於ケル検疫の実際」、「野戦病院検索用培地製造方法ニ就テ」、「熱帯地伝染病ニ就テ」など8本の研究報告を発表した以外に、『陸軍軍医団雑誌』に「血行内ニ送入セラレタル細菌ノ運命ニ就テ」と「乾燥免疫血清ノ清三並二保存二関スル研究」を発表した。また、戦後に『大東亜陸軍衛生史(7)』において「検疫に就いて」という文章を執筆した。

      1943年3月25日に九四二〇部隊に編入された早川清軍医中佐は、九四二〇部隊の中心人物であると同時に七三一部隊の中堅でもあった。同氏は前述の研究報告を執筆したほか、1937年から1940年までのすべての陸軍防疫機関を列挙し、陸軍軍医学校防疫研究室、南支那防疫給水部、中支那防疫給水部、北支那防疫給水部および関東軍防疫給水部を「固定防疫給水部」として、第1防疫給水部から第18防疫給水部までの18個の防疫給水部、ほかにノモンハン事件加茂部隊防疫部、北条部隊中支那臨時防疫、太田部隊北支那臨時防疫および関東軍第一野戦病院給水部を「移動防疫給水部」に分類した。ほかに各防疫給水部の部隊名、編成地、現駐地、編成時期、人員数などの詳細も列挙され、ある程度日本生物戦体制の構成状況を反映していると言えよう。これらの情報は、石井四郎が1940年3月30日に陸軍軍医学校主催の陸軍軍陣医薬学会で行った、戦時中に新設された陸軍防疫機関の運用効果に関する講演(参会者は全員日本生物戦計画の関係者であった)を支える資料となった。

       結論

      2015年の『関東軍防疫給水部留守名簿』の公開をきっかけに、学界はそれに関連するほかの生物戦部隊の「留守名簿」にも注目し始めた。『南方軍防疫給水部留守名簿』は戦後の長い間、元軍人とその家族に対する恩給や年金支給の参考としてのみ日本厚生労働省に保管されていた。その後、第二次世界大戦終結75周年の時代背景の下で、当資料の利用目的は次第に戦後処理から歴史研究に変わり、その関心点は九四二〇部隊に関する基本的な史実を認知することにあった。一方、重要な戦史資料に対する日本政府の秘密保持政策は、九四二〇部隊に対する学術研究の深化を制約し、結果として九四二〇部隊そのものの存在さえも長期にわたって疑われていた。そこで、『南方軍防疫給水部留守名簿』による全隊員の実名公表は、九四二〇部隊の編制、組織規模、人員構成および職級?階級などの基礎的史実を明らかにし、それに基づき新たな学術研究を進展させることを可能にした。また、『南方軍防疫給水部留守名簿』を手掛かりに、九四二〇部隊の構成員が執筆した生物医学研究報告を調べることもでき、同部隊が1942年から1945年までに行った「防疫研究」と生物戦との関係を認識する上で重要な史料的価値を持っている。

      1942年以降、日本の東南アジア進出の加速に伴い、九四二〇部隊の活動範囲も急速に拡大し、ほかの防疫給水部との間で頻繁に人員の入れ替えが行われた。例えば七三一部隊総務部長の大田澄は一六四四部隊長として九四二〇部隊の編成を担当し、同じ七三一部隊総務部長の北川正隆は九四二〇部隊の初代隊長となったのである。そもそも九四二〇部隊は、一八五五部隊、一六四四部隊、八六〇四部隊と同様に、部隊の編成、防疫業務から生物兵器研究に至るまで七三一部隊を核心としており、それぞれ異なった程度で七三一部隊の制約と指導を受けていた。同部隊は人員配置と研究活動の面で陸軍軍医学校や七三一部隊と絡み合った関係にあったことも、日本生物戦体制の特徴を提示すると言えよう。


作者:杨彦君,上海交通大学战争审判与世界和平研究院研究员;储欣予,上海交通大学战争审判与世界和平研究院助理研究员

来源:『戦争と医学』第25巻、2024年12月